大日本帝国の戦略
二次大戦当時、大日本帝国はどうするべきだったのか。大東亜共栄圏を完成させるべきであったといえる。
まず、日本は大陸国家ではなく海洋国家である。これは周りを海に囲まれているのだから変わりようのない事実だ。そのうえで彼らは満州国を建国し、そのうえ中国に侵攻しようとした。これは大陸国家の戦略で海洋国家である日本のとるべき行動ではない。
そこで僕は満州とフィリピンを交換することを提案する。アメリカは当時中国進出に興味があったので、可能であると思う。さらに通行券の交換、何なら同盟までする。これは実現可能であると思う。その後、フィリピンは併合する。同じアジア人で税制度などを改革すれば抵抗はあまり大きくない。その後、日本は二次大戦に参戦してはならない。
参戦せずにヨーロッパが戦争で疲弊している間にベトナム、インドネシアなどのヨーロッパの植民地に投資をして東南アジアに対する経済的な影響力を大きくしていく。そうすることで将来独立したときに親日国家になっている可能性が高くなる。大戦が終わって、独立運動が盛んになったら支援すればより親日な国家が誕生するはずだ。さらに中国国内では国民党と共産党による内戦が始まる。しかし、介入するのではなく、日本はこれには資金援助を国民党にするのみ。まったく日本は戦争にかかわらないが、周りの戦争に武器を提供することで特需は生まれる。
つまり、経済、工業力は成長する。まさに富国強兵。さらに、周りの国は疲弊している。しかも、東南アジアの資源地帯は親日である。大東亜共栄圏が完成する。人口も多く、戦争による疲弊も少ないのでヨーロッパよりも発達した経済圏が完成する。
金は剣よりも強し
戦争の是非
Bonjour, monsieur
ここまで戦術について扱ってきたが、そもそも戦争をするべきなのだろうか。古代の名将、孫氏と呉子に学ぶ。
戦争とは武力の伴う政治であり、政治の一つの手段に過ぎない。その逆であっては決してならない。外交で決着がつくのが最善である。しかし、戦争がひとたび始まれば、政治家たちは軍部に決して口を出してはいけない。戦争のことは軍人のほうがよく知っている。
他国に侵攻するときは短期決戦を心掛けねばならい。長引けば長引くほど補給線は伸び兵站にかかる負担は指数関数的に大きくなっていく。孫氏は「百戦百勝は善の善なるものならず」といい、呉子も「しばしば勝ちて天下を得るものは稀に、もって滅ぶものは多し」といっている。
そのために、侵攻前には自国と敵国の実情をしっかりと把握し短期で降伏させられるかどうかを調べる。この時に自国の評価を客観的に行うことが重要。さらに作戦立案は集めた情報をもとに侵攻前に行わなければならない。
つまり、「戦わずして勝つ」が最善であることは変わらない。戦争するにしても「兵は拙速を貴ぶ」、短期に決するのが重要である。
Bonne jornee
横陣と縦陣
Bonjour, monsieur
今回は前回扱った横陣と、対をなす縦陣の激突、川中島の戦いについて書いていきたいと思います。
縦陣・・・横陣と対をなす。縦に長い陣のこと。横の厚みが薄いので横撃に弱く、横撃を受けるとすぐに前と後ろに分断されてしまう。一転に攻撃を集中できるので敵陣を突破しやすい。そのため、横陣に相性がいいといえる。
川中島で武田信玄と上杉謙信は5度にわたって戦った。そのうちでもっとも有名な第4次川中島の戦いを取り上げていこうと思う。
武田:20000
上杉:12000
武田方は12000の兵で妻女山にいる上杉軍を追い立て川中島で待ち構えている本軍とで挟み撃ちにしようとした。しかし上杉軍はその動きを事前に察知し川中島にいる武田本軍に対し攻撃を仕掛けた。この時武田本軍は鶴翼の陣、横陣の変形、をしき待ち構えていた。それに対し上杉軍は車縣りの陣で攻撃を仕掛けたといっているが要は部隊をいくつかに分け波状攻撃を仕掛けたのではないかと思う。それに彼は素早く武田本軍を撃破しなければ、別動隊が戻ってきて挟み撃ちになることをわかっていたと思うので彼は鶴翼の陣を突破するして戦場を離脱するつもりだったのではと思う。謙信と信玄が一騎打ちをしたというのもそれほど上杉軍の攻撃が激しかったということではないかと思う。よって、これは縦陣といえるのではないかと思う。部隊がいくつにも分かれて一転を波状攻撃で突破しようとするのはもはや縦陣といえるのではないかと思う。結果としては武田本軍の抵抗が激しく上杉軍は陣中突破はできず、武田別動隊が戦場に到着したため戦場を敵のいない方向に向けて離脱した。諸説あるがこの戦いは引き分け、ということで決着がついた。戦国時代のロマン的にも勝敗がつくよりは引き分けのほうがいい。
このように縦陣というのは使い勝手のいいものではなく横陣と比べるとどうしても見劣りしてしまう。しかし敵陣突破のためにはこれ以上ない陣形といえるだろう。
Bonne jornee
横陣
Bonjour, monsieur
前回紹介したカンナエの戦いでは、ローマ、ハンニバルともに横陣をしいていた。
横陣・・・横に長い陣のこと。縦の厚みが薄いため、陣を割られて後背に回り込まれる可能性は高かった。しかし、遊軍は少なくなるためその軍の最大火力を敵にぶつけることができる。ようは、間を割られなければ最強、ということだ。
横陣を最適に使ったのは前回も扱ったハンニバルだ。カンナエのほかにもトレビアの戦いで横陣の有効性を証明している。
彼はローマ軍を少数の騎兵で陣地を襲撃することにより、対岸へと誘引し、騎兵を使った包囲戦を展開した。彼の歩兵では川を渡ったことで疲れ切っているローマ歩兵ですら殲滅するには力不足だった。そのため、歩兵が押し込まれてもその状態を包囲につなげるために両サイドの騎兵部隊を使った。横陣から縦深陣に陣形を変化しつつ敵を包み込むように包囲をする、現在ですらたびたび小説などに登場するお手本ともいうべき戦術を彼は生み出した。
Bonne jornee
ハンニバル・バルカ
Bonjour, monsieur
今回は包囲殲滅戦の天才、ハンニバル・バルカを紹介したいと思う。「バル神の申し子」という意味のハンニバル。古代ローマ帝国を最も苦しめた男として名高い天才です。第二次ポエニ戦争、またの名をハンニバル戦争その名の通りローマvsハンニバルといっても過言ではありません。それほどの天才ということです。彼はアルプス山脈を越えてイタリア半島に侵入し、その後10年以上にわたってローマを苦しめることになる。そんな彼が残した最高の包囲殲滅戦がカンナエの戦いだ。
紀元前216年に起こったもので、ハンニバル軍はローマ軍よりも少ない兵力しかもっていなかった。それにもかかわらず彼は包囲殲滅することを選んだ。
カルタゴ:歩兵40000
騎兵10000
ローマ: 歩兵64000
騎兵6000
はじめ彼は軍の中央部を膨らませた。これはローマ軍の重装歩兵がとても強く、彼の率いている傭兵軍団では太刀打ちできないと考えたためだ。膨らませることによって敵軍が自軍歩兵を割って後ろに回られるまでの時間を稼ごうとした。そして、自軍の有利な騎兵が敵の騎兵を打ち破って、ローマ歩兵の後ろから攻撃を加えてくれるのを待とうとした。
結果として、彼の子飼いともいえるヌメディア騎兵はローマ騎兵を打ち破りローマ重装歩兵の後背を攻撃することに成功した。ローマ軍は死傷者60000、捕虜10000という、文字の通り全滅を喫した。
なぜ彼が少ない兵力でローマ軍を殲滅できたのか。それにはいくつかの要因がある。まず、騎兵においては彼のほうがローマよりも優勢だったこと。これにより彼は荒廃から攻撃を仕掛けることができた。もし、騎兵戦力が拮抗していれば完全殲滅はおろか負けていたとすら考えられる。第二に当時の戦い方として、密集した陣形でもって敵を押しまくるというのが主な戦法だった。そのため、さらに周りから圧力をかけられて、より密集してしまうと、県を鞘から抜くのさえできなくなってしまうほどの混雑状態になってしまうのではと考えられる。結果、戦うことさえままならず外側にいた兵から殺されていくということが起こったと思われる。
御覧のようにハンニバルというのは天才と呼ぶにふさわし将だった。彼にかわいそうなところが一つあるとすれば、自らの弟子ともいえるアフリカヌスと直接対決をしてしまったところにあるといえる。それもアフリカヌスの騎兵戦力の有利な状況で。こうして彼の偉大なイタリア侵攻も幕引きとなり、地中海世界はローマ一強の時代になっていった。
Bonne journee
外線作戦と内戦作戦
Bonjour, monshieur
前回扱った内戦作戦は言葉を換えれば二正面作戦ということ。よほど自分の軍に自信がない限り、自ら進んで行う作戦ではない。二正面作戦を行った例として、わかりやすいのは両大戦でのドイツだ。一次大戦のドイツはオーハンに巻き込まれたわけだし、二次大戦もわかっていたとはいえフランスから宣戦布告してきている。そういう意味ではポーランドを倒し、返す刀でベネルクス、フランスを倒したのは内戦作戦の成功例といえる。
ただし、フランス戦で見れば外線作戦を展開したといえる。ポーランドとフランス、それにマジノ線を足すとドイツ軍よりも戦力は上回るが、ベネルクスとフランスだけではドイツ軍の敵ではないということだ。
ほかの内戦作戦の成功例としては、第三次中東戦争のイスラエルだ。エジプト、シリアから戦争を仕掛けられた。イスラエルも軍は整っているが、両国から挟み撃ちにされては負けることは必至だ。
このように、イスラエルはまず第一の正面であるシナイ半島のエジプト軍をスエズ運河を使うことで包囲殲滅し、エジプトと単独講和する。次に第二の正面のゴラン高原に全軍を転身させ、シリア軍をたたいた。わずか6日で終わった戦争だった。精強なイスラエル機甲軍団あってこその作戦でこれ以上なくきれいに終わった戦争といえる。
ドイツとイスラエルの二つの例を見てわかるように、内戦作戦とは一方では少数で防衛しつつもう一方には敵よりも強大な戦力でもってこれを撃破する作戦だ。つまり、数的優位を一方で作り、その兵力を持って外線作戦を展開する。要は初めから外線作戦が展開できれば苦労はしないという作戦なのだ。どちらが優れているかといえば当然外線作戦だ。敵の三倍の兵力で平原で外線作戦をすればまず負けることはない。
ただし、防衛と攻撃をきれいに組み合わせた内戦作戦のほうがオシャレであることは確かである。
Bonne jornee
内戦作戦
Bonjour, monsieur
昨日扱った賤ケ岳の戦いですが、どうしたら柴田軍は勝つことができたでしょう。彼らは少数の兵力で外線作戦を行ってしまったために負けてしまいました。
少数ならば、外線作戦とは反対の作戦、内戦作戦をするというのも一つの手です。
内戦作戦・・・弱者の戦法といわれていて、守勢的な作戦。敵軍のほうが多いとき、戦線が二つ以上あるときなどに使われる。一つの戦線に主力を投入して敵を撃破し、その間は他の戦線は最小限の戦力で防衛する。片方の戦線がかたずいたら、もう一方に全力を傾け、これを撃破するのが内戦作戦。
幸い、この戦場には余呉湖という軍の通行不可能な地域があります。この地域を使って、敵戦力を二分し、各個撃破することも可能なはず。
佐久間軍は史実通り大岩、岩崎山を攻略、保持しようとするが、勝政軍が賤ヶ岳を奪取できず、両軍退却。これを追撃しようと丹羽軍が出てきたところを前田軍も含めた三軍で撃破。撃破している間は不破軍が木村、木下軍をけん制する。丹羽軍は7000、たいして柴田軍は10000強なので撃破可能と考えられる。さらに援軍が桑山軍からくるはず。これも1000名程度なので撃破可能と思う。そのまま賤ヶ岳を奪取し、戦線を膠着させる。そうすると、秀吉は賤ケ岳攻略に動くのではないかと思う。秀吉軍は15000ほどなので、佐久間軍と勝政軍が協力すれば食い止めることはできる判断した。もしできなくとも、権現坂まで下がりつつ遅滞防御をすればいい。その間に、勝家軍と毛受軍で堂木山まで進軍しつつ、敵軍を撃破していく。前田、不破軍も呼応して動く。そうすると、羽柴両軍の合わせて30000のみが敵の戦力となり、戦力は同等。たぶん佐久間軍は権現坂まで後退していると思うので、ここで前田軍も援軍とし、秀吉を抑えてもらう。秀長軍は勝家軍を撃破して、包囲しようと動くと思うが、これは戦上手の勝家が撃破できる。そして、逆に包囲をすることで勝てるのではないかと思う。
このように内戦作戦は弱者の戦術であり、勝つのは相当難しい。兵力も兵站も整った状態で行う外線作戦が最もいいに決まっている。
Bonne jornee