外線戦術

Bonjour, monsieur

 皆さんは賤ケ岳の戦いを知っていますか?柴田勝家豊臣秀吉が雌雄を決した戦いです。合戦は下の図のように推移しました。

 

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賤ケ岳の戦いの合戦図

柴田軍:30000
豊臣軍:50000
柴田軍は大岩山を奪取することで、余呉湖を使った半包囲をしようとしていたと考えられる。しかし、賤ケ岳を奪取しないことには逆包囲されてしまう。しかし、賤ヶ岳を奪取せず、兵を引かせることもしなかったため、佐久間軍は羽柴軍に追われ敗走、勝政軍も敗走する羽目になってしまった。

この時の柴田軍の動きを外線作戦という。
外線作戦・・・端的に行ってしまえば包囲作戦のこと。兵力も兵站も整った状態で行われるのが望ましい作戦。成功すれば敵軍を壊滅させることができる。しかし、兵の厚みが足りなかったり、包囲にほころびがあったりすると、戦力が分離し、各個撃破っされてしまう。そのため、優勢な軍が行う戦術としては有効だ。

例:シュリーフェン・プラン
第一次世界大戦時にドイツ帝国西部戦線でとった作戦案。小モルトケによって改定されてしまったが、改定されていなければ西部戦線はすぐに勝敗が決まったはずだ。

 

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シュリーフェン・プラン

フランス軍アルザス・ロレーヌ奪還のために動いている間に、ドイツ軍はベネルクス三国の不可侵を犯しベルギー国境からフランスになだれ込み、アルザス地方のフランス軍を包囲殲滅するという作戦である。まさに外線作戦のお手本ともいうべき作戦だ。しかし、史実ではこの通りは行われず、地獄の西部戦線が出来上がってしまった。

例2:インパール作戦

日本軍が現在のインド、ビルマ国境でイギリス軍相手に展開した作戦です。

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インパール作戦

この作戦の前の時点で日本軍の兵站はかなり伸びており補給状態は劣悪でした。そこからさらにイギリス軍がインパールまで下がってしまったため、補給線は伸び切ってしまいました。さらに兵力もイギリス軍のほうが多く、戦力は圧倒的に不利な状況にありました。そのような状態で外線作戦を行えば当然各個撃破されてしまいます。そしてその通りのことが起きました。結果白骨街道とも呼ばれる撤退路を作ってしまいました。

例外:奉天会戦
これもまた日本軍の作戦です。ただし今度は日露戦争時に奉天で行われました。

 

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奉天会戦

冬、満州とだけあって、今回も日本軍の兵站状況も芳しくなかった。一方のロシア軍は満鉄を持っていたため、悪くはない状況だった。また、兵力においてもロシアのほうが勝っていた。特に火力(砲の数)は数倍の差があった。そんななかでも日本軍は外線作戦を展開させた。ロシア側の総大将は外線作戦を展開するなら豊富な予備兵力がいるに違いないと思い、包囲される前に撤退することを決意。結果奉天会戦は日本軍の勝利となる。明らかにロシア軍の情報収集が足りていなかったといわざるを得ない。

 

このように外線戦術は「勝ち易きに勝つ」ための戦術だということが分かってもらえたと思う。兵力劣勢化で大なう意味は皆無に等しいといえる。

Bonne journee.